2010年10月13日水曜日

Classic

例えば、音楽におけるクラシックのように、料理の古典を「今日通用する形」で表現する、という試みを始める。音楽に楽譜があるように料理にはルセットがある。違うのは料理には作者や「歴史的フィルタの通過過程」がはっきりしていない作品が多く、原作からかけ離れた解釈や表現がなされているのにも関わらず、「共通の認識がある料理名」がつけれられてしまっていても、それを「間違っている」という根拠を明確に提示しにくい部分だろうか。

音楽は世界的な認識のもと、作者と楽譜、そして奏者があるのだから間違いはない。

料理と比べればお菓子の世界は少し違う。「古典的アントルメ」は作者はともかくとしても名前とヴィジュアルと大筋の構成が決まっているので相対的比較論が成りたちやすいからだ。古典的定番のお菓子を比較することでそれぞれの作り手の解釈や主張を受け取りやすい分野といえる。

古典をいったん分解して自分のフィルターを通して再構築、という言葉をここ十数年良く耳にしたけれど、全く違う新しい自分の形を言いたいのであればカルトの書き方にもより一層の工夫と説明が必要なのではないだろうか。サプライズしたいのであれば事後でも構わないのだから。言葉と料理をもっと融合させるべきなのだと思う。

僕も「フランス古典料理」の解釈と現代での表現、そして研究ではなくリアルなレストランの現場で履行できる、理論と実際を踏まえた上でのメソッドの構築、そんなことにも挑戦してみようと思っているところだ。

そもそも、Auguste Escoffier の「Le Guide Culinaire」は歴史のどの部分に属しているのだろう。カレームもデュボアもニニョンもエスコフィエそしてポワンも同じクラシックなんておかしな解釈なのだから。「Le Guide Culinaire」の功績を中心にタイムラインを形成する時代が今終わろうとしている。