2012年4月2日月曜日

Eau

僕が料理の仕事を始めたばかりの時、慣れない調理場で右も左も分からなかった時、「食べる」ということの意味が何であるかも知らなかった時。
副料理長の仕事ぶりを横から覗き見していた。「技術は盗め」の時代だ。ソースを作るプロセスでワインの瓶に入った何かを入れる。液体だ。色のついたワインのボトルだから中身がなんであるかは分からない。魚をポワレする、同じボトルからまた何かを少しだけ鍋に。こんな調子であるポイントでその秘密の液体を使うのだ。

そして仕事が一段落するとボトルの中身はシンクに流して綺麗に洗ってしまうのでその中身がなんであるかは分からないし、その時はまだ新米の僕がソースの作り方など質問できるような状況でも無かった。それに重要な仕事を任されている料理人は仕込みを始めると皆背中を向け、分量やプロセスを他人に見られないように隠しながら仕事をする。そんな時代だったのだ。

ある時、副料理長は何かの用事でストーブ前から離れた。ディナーの営業中なのでまたすぐに戻ってくるに違いない。僕はそのボトルを睨みつけた。魔法の液体が入ったあのボトルを。「今しかない」と、思い切って味見をしてやろうと思った。「秘密を盗み出すのだ」とそのボトルに手を伸ばした。いつ副料理長が戻るか分からないギリギリの選択だ。まるでアクション映画の1シーン見たいだ。自分の鼓動がBGMで全てスローモーションのよう。体が思った通りに動かない、速く、早く、ハ・ヤ・ク・・・。

ボトルから小さなバットに少しだけ液体を移し、何くわぬ顔で手元に置いた。誰も気がついていない。「しめしめ」。

僕はこうして調理場での修業を乗り越えて来たのだ。


魔法の液体をスプーンで味見すると・・・それはただの水だった。